野崎参りは屋形船で参ろ@野崎観音・大阪府大東市
更新日:2022年5月31日
こんにちは!大阪・枚方の着物着付け教室サロン・ド・ヴィーヴルの山口あゆ美です。
子どもの日のこと。
青天の下、前から行ってみたかった野崎観音に行ってみました。

この日の着物
着物:藍染の紬(柄から類推するにたぶん沖縄の方のもの?)
帯:ざっくりした織の名古屋帯。着物の緑に合わせて緑の帯。
帯揚げ:先日イベントで自分で染めた墨流しの帯揚げ
帯締め:東寺ガラクタ市でゲットした帯締め(500円♪)
バッグ:バゲットが入りそうな作家さんのバッグ(名前失念)
なぜ興味があったかと言うと、
歌の歌詞で、昔はここまで屋形船に乗ってやってきた、と知り、今は近くに川もないのに、どうやってここまで来たんだろう?と思ったからでした。
生駒山の山続き、飯盛山に近い中腹に位置する正式には慈眼寺(じげんじ)、ご本尊は十一面観音で、古くから「野崎観音」として親しまれています。
元禄時代からは大坂の商人たちから篤く信仰を受け、日帰りできるちょうどよい距離ということもあり、行楽地としても野崎参りは大変賑わったそうです。
その様子が「野崎小唄」の歌詞に描かれています。
♪
野崎参りは屋形船で参ろ
どこをお向いても菜の花ざかり
粋な日傘にゃ蝶々もとまる
呼んでみようか土手の人
♪
当時は大阪城の北、天満橋の八軒屋浜から寝屋川を遡り、徳庵から住道を経由して、現在の野崎駅の南、観音浜まで屋形船が運航していたそうです。(慈眼寺ホームページより引用)

そして、江戸時代の初めまで深野池(ふこのいけ)と新開池いう大きな池が、大阪と野崎の間にありました。

野崎は、この地図の深野池のちょうど右辺り。(地図はネットで見つけ、使わせて頂きました)
確かに大阪城の北、天満橋の八軒屋浜からお船で深野池まで直通で、野崎まで来れますね!
この深野池は、縄文時代、生駒山の麓まで海水がきていた古代河内海がやがて河内湖となり、その名残なんです!
古代河内湖は江戸時代には、北の深野池、西の新開池を残して干上がりましたが、それでも大阪平野は縦横に川が流れ、一面湿地帯と言っても過言ではなかったようです。
人馬がまともに通れる道はほんの少しの土地だけだったので、川や水路を船で往来する方がずっと効率的だったんですね!
少し時代は遡り、本能寺の変の時、徳川家康は堺にいて、慌てて三河まで逃げ帰ったという有名な「神君伊賀越え」の際に通ったルートはどこか?についての講演を聞いたことがあります。
堺から枚方・交野まで家康が通ったルートは恐らく、堺から川を下って深野池を渡り、生駒山の連山であるこの野崎辺り(飯盛山辺り)に上陸し、東高野街道を通りながら山に沿って枚方~交野を通って行ったのでは、とのお話でした。
こんな地図を見ると、なるほどと思わされますね!
火急を要する緊急事態に、一刻も早く大坂を離れなければならないとなると、馬もまともに歩けないような、当時湿地帯で足元べちゃべちゃのところを行くよりも、水運を利用した方がずっとずっと早かったんだろうな!昔の川はhighwayなんですね~。
と、そんなことを思いながら野崎観音にやって来ましたら、おお~~~!!!ホントだ!!かなりの急斜面に急勾配!!(笑)

この下までお船でやってきて、みんなでこの石段を登って行ったんだ~。。。としばし昔の景色を夢想します。

石段を上がると、とてもいい景色が広がっています!大阪平野一望です!


とても立派なお寺です!
安産の御利益があるみたいで、かわいい張り子の犬がた~くさん!!

5月1日~8日はご本尊の十一面観音さんの御開帳の時期に重なり、観音さんが持っておられる五色の糸。頼みの綱、というそうです(笑)
それにお願い事を書いたものをくくりつけ、手で握らせて頂くと、観音様とご縁が結ばれる、ということでありがたくさせて頂きました!



そして、さらに上に上がると大阪平野を一望にできる!
この下まで水辺だったのか~~~とか考えていると、タイムスリップしたような気持ちになります♪

そして、ここ野崎観音には西行法師とのエピソードで高い江口の君が祀られています。
こちらに参詣し、願をかけたおかげで、婦人病が治ったため、深く感謝した江口の君は得度し、野崎観音の本堂を再興したとわれています。